Story
合格者のストーリー
「周りに日本の大学受験を知っている人が誰もいない。」
北京のカナダ系インターナショナルスクールに通いながら、慶應義塾大学総合政策学部(SFC)への総合型選抜に挑んだ熊野さんは、受験当時をそう振り返る。同級生の多くはカナダやアメリカの大学を目指し、担任の先生も日本の入試制度を知らない環境。受験情報は完全にネット頼み。塾もなし。それでも彼女は、慶應SFCの総合型選抜に合格し、現在は累積GPA3.7を維持しながら大学院進学を決めた。
彼女の強みは、4ヶ国語を話せる語学力でも、輝かしいコンテストの受賞歴でもなかった。幼少期から4ヶ国で暮らした実体験から生まれた「問い」と、その問いを軸に全ての活動・経験・書類を統一した一貫性だった。
「大学側が取ったら、得になる人だよ、っていうことを売り込もう」という志望理由書の戦略。「SFC以上の圧迫面接で毎回泣きながら」続けた父親との特訓。そして本番の面接で、志望理由書に名前を書いた教授本人が面接官として登場した瞬間の高揚感。インターナショナルスクール出身者や帰国子女として総合型選抜を考えている受験生に、ぜひ読んでほしいストーリーだ。
4ヶ国での幼少期が育てた「国際政治への問い」—原体験と家族環境

熊野さんが初めて日本以外の国を意識したのは、幼稚園の頃だったという。韓国で生まれ、2歳頃には中国・大連へ。その後、日本で幼稚園から小学5年生まで過ごし、小学6年生でシンガポールへ移住。中学2年生の夏には中国・北京に移った。地図で見れば東アジアをぐるりと巡るような幼少期だった。
「なんで日中韓は仲良くできないんだろう?」
この問いは、幼い頃から家庭の食卓に転がっていたものだ。父親は仕事の関係で海外が長く、母親は韓国人。家では日本語と韓国語が飛び交い、両親が日中韓の政治問題について議論する場面は日常的な風景だった。子どもながらに「なぜ隣の国同士が仲良くできないのか」という素朴な疑問を持ち続けたのは、こうした家庭環境があったからだろう。
その疑問は、コロナ禍にさらに具体的な問題意識へと変化する。北京に住みながら日本のニュースを見ていると、自分が実際に暮らして感じている現実と、日本のメディアが報じる中国の姿とのあいだに大きなギャップがあることに気づいた。「必ずしも嘘ではないが、ネガティブな面を誇張している」と感じた彼女は、「なんで日本のメディアはそういう報道の仕方をしているのか」という疑問を抱くようになった。この疑問こそが、のちに「戦略的ナラティブ(国際政治におけるソフトパワー研究)」という慶應SFCでの研究テーマへと発展していく。
「なぜ日中韓は仲良くできないんだろう?」—子どもの目が捉えた国際政治
「自分の今、見えている側面だけが真実じゃない」という言葉を、熊野さんは現在の自分の研究姿勢を表すときに使う。だがこの感覚の根っこは、幼少期から積み重ねてきた多国籍の生活経験にある。韓国・中国・シンガポール・日本という4つの国を渡り歩き、それぞれの文化・言語・ニュースにさらされ続けた子どもは、「どこかひとつの側から世界を見ることの限界」を身体で知っていた。
コロナ禍の中国在住という体験は、この感覚をさらに鮮明にした。「それが全部じゃないんだけどなぁという現実」と「日本の報道」のズレ。そのズレが「政府や国家はどのような発信をしているのか」「メディアはなぜそのような伝え方をするのか」という問いへと変わり、研究テーマの核心となっていく。
言語の壁と孤立—北京インター校で日本人ひとりの中学時代

転機は中学2年生の夏に訪れた。北京への引っ越しに伴い、カナダ系のインターナショナルスクールに転入することになったのだ。授業は英語。クラスメイトは多国籍。そして同学年に日本人は自分だけだった。
最初の数ヶ月は、文字通りの孤立状態だった。「本当に言語の壁があって、仲良くなりづらさを感じた」と熊野さんは振り返る。「授業も何言ってるかわかんないし、友達もできないし」。英語で話されるIBカリキュラムの授業についていくために、彼女が選んだのは深夜3時まで予習復習を続けるという力技だった。
そんな孤立を最初に解いてくれたのは、一人の韓国人の同級生だった。体育の授業で場所がわからず迷子になっていた熊野さんに、声をかけてくれたのだ。「私が日韓のハーフなので、ハーフの子が来たっていう噂を聞いた韓国人の子が話しかけてくれて」。その出会いが、言語習得の最初の突破口になった。
深夜3時まで予習復習—言語習得のために編み出した「使いながら覚える」戦略
友人ができたことで、熊野さんは英語習得の新しい方法を発見する。「もう新しい単語を聞いたら、日常会話でもうとりあえず使ってみる」というアプローチだ。教科書で覚えてから使うのではなく、実際の会話の中で使いながら覚えていく。間違えても恥ずかしがらず、「恐れずに使っていくことで、習得していった」のだという。深夜3時まで机に向かった中学生の必死さが、後の受験の志望理由書にも、面接の受け答えにも、静かに滲み出ることになる。
高校時代の探究活動—日韓国際交流会の立ち上げとメディアインターン
インターナショナルスクールの高校課程(IBカリキュラム)に進んだ熊野さんは、授業の選択制という環境を活かしながら、課外活動にも力を入れていく。スポーツはシーズン制のバドミントンとサッカー。ボランティア系のクラブ(Days for Girls)にも参加した。だがそれ以上に印象的な活動が、日韓国際交流会の立ち上げとメディアインターンだった。
日韓国際交流会は、日本の友人からの「こういうことがやりたいんだけど、一回やってみない」という声かけから始まった。各国に散らばっているメンバーはオンラインで集まり、お互いの国の文化や、ニュースで伝えられていることが現地ではどう感じられるかを話し合った。「日本のニュースで言ってるけど、今、韓国本当にこんな感じなの?」という興味本位の会話が、交流会の核心だった。
一方、日本メディアの北京支部ではインタビューを行った。報道の現場に触れることで、「なぜ日本のメディアはそういう報道の仕方をしているのか」という疑問はより具体的に深まっていった。
「興味本位」が生んだオンライン国際交流会—企画・運営の舞台裏


日韓国際交流会の運営において、熊野さんが特に気を配ったのは参加者の言語格差への対応だった。共通言語は英語としつつも、英語に不慣れな参加者のために通訳を用意し、話しやすいお題を事前に設定した。「一回で終わらせず何回か開催」するために、友人のネットワークを活用して参加者を集め続けた。活動実績の「規模」よりも「テーマとの一貫性」が重要だという、後の受験戦略の核心がここにある。
「情報ゼロ」からの慶應SFC受験—独学で開いた総合型選抜の扉
高校3年生になり、いよいよ進路を考える時期が来た。同級生のほとんどはカナダやアメリカの大学を目指しており、日本の大学受験を経験した人間が周囲に誰もいない。「周りに知っている人が誰もいない」という状況の中で、頼れるのはインターネットだけだった。
「本当にネットで情報収集するしかない」という孤独な受験準備の中で、彼女はさらに大きな壁に気づく。「お恥ずかしい話、私、帰国子女入試があるのを知らなくて」。帰国子女入試という選択肢が存在することすら認識しておらず、最終的にAO入試(総合型選抜)のタイミングがちょうど合致したため、そちらで出願する流れになったという。
当初の第一志望はトロント大学だった。しかし金銭面での壁が立ちはだかった。「カナダの大学って国立大学しかないので、海外の学生に対しては奨学金があまり降りない」。さらに研究環境も比較検討した結果、最終的にSFCという選択に辿り着く。
著名教授を逆算してSFCを発見—「この教授、この学部じゃん」
志望校の絞り込みは、珍しいアプローチから始まった。「大学名から検索する」のではなく、「関心のある分野の著名教授から調べていく」という逆算の方法だ。国際政治・ソフトパワー・安全保障を専門とする著名教授を次々と検索していくと、「この教授、この教授はみんなSFC慶應所属なんだ」と気づき、「あれ、この教授、この学部じゃん」という発見が積み重なっていった。さらに「1年生から研究会に参加できる」という環境も彼女の心を動かした。金銭的な現実と研究環境の魅力を天秤にかけ、SFCへの総合型選抜挑戦を決意した。
志望理由書と面接—「大学に得な人材」を売り込む戦略
出願書類は、自己推薦理由書、自分を1枚の紙で表現する書類、そして動画の3点だった。特にメインとなる志望理由書について、熊野さんには明確な設計思想があった。「大学側が取ったら、得になる人だよ、っていうことを売り込もう」という逆算の発想だ。
多くの受験生が陥りがちな「自分がやりたいこと」を並べるだけの書き方ではなく、「慶應SFCにとってなぜ自分が必要か」という視点から書類を設計した。「こういう勉強をしたい(現在の研究関心)→こういうところに活かして(将来への応用)→こういうことをしたい(社会への貢献)」という構成だ。書類全体を通じて、テーマは「国際政治への関心」一本に絞り込んだ。幼少期からの4ヶ国生活→コロナ禍のメディア報道とのギャップ→日韓国際交流会→メディアインターン→戦略的ナラティブへの研究関心という流れが、全て一本の軸でつながるように設計されていた。
父親の圧迫面接特訓—「毎回泣いた」練習が本番を楽にした
面接対策において、熊野さんには一人の強烈な練習相手がいた。国際関係を専門とする父親だ。ネットで「SFCの面接は圧迫面接が怖い」という情報を見た熊野さんが相談すると、父親は「SFC以上の圧迫面接」を実施した。「その知識ないの?本当に関心があるの?」と専門用語で次々と問い詰められ、「毎回面接するときに泣いちゃう」ほどの特訓が続いた。
「その知識ないの?本当に関心があるの?」—専門知識を問われた夜
準備不足を突きつけられるたびに涙が出た。しかしその経験が、本番の面接での落ち着きを生み出した。「実際の面接では、すごい優しいんだけど、みたいなぐらいの心持ち」で臨めたのは、父親との特訓があったからだ。そして迎えた面接当日、部屋に入ると志望理由書に名前を書いた教授本人が面接官として座っていた。「ドーパミンがすごく出ちゃって」と彼女が表現するほどの高揚感の中で、自分の研究関心を「自分の言葉で」語ることができた。
慶應SFCが評価した3つのポイント—帰国子女の強みを最大化した戦略
熊野さんの合格を振り返ると、審査側に評価されたポイントは3つに集約できる。第一は、テーマの一貫性だ。幼少期の疑問から始まり、メディアインターンや日韓交流会、そして志望理由書に至るまで、全ての要素が「国際政治への関心」という一本の軸で説明できた。第二は、実体験に基づく問題意識の深さだ。北京在住という現場感覚と日本の報道との乖離という体験は、「本で読んだ知識」とは次元の異なる問いを生み出していた。第三は、将来ビジョンの具体性だ。研究計画がSFCの研究環境と明確に接続されていた。
「テーマの一貫性」が合否を分けた—幼少期から高校まで一本の軸
「やってることか、やってる内容とかはちゃんとしてるのに、それがなかなか言語化が難しい」という感覚は、多くの帰国子女や国際経験のある受験生が抱えるものだ。熊野さんが採用したのが、「全ての経験を国際政治のレンズで再解釈する」という方法だった。日韓国際交流会は「異なる情報環境に生きる人々の認識のズレを体感した活動」として位置づけ直した。メディアインターンは「報道のあり方への問いを深めた経験」として語り直した。活動の数や規模ではなく、一本の軸への収束力が、書類の強度を決めた。
合格を掴んだ今、後輩へ伝えたいこと—海外から総合型選抜を目指す人へ
慶應SFCに入学した熊野さんは、1年生から研究会に参加し、アルバイトを4つ掛け持ちしながら、GPA3.7という成績を積み上げた。大学4年生となった今、大学院への進学を決め、戦略的ナラティブの研究をさらに深めようとしている。
後輩への最大のメッセージは、AI時代の受験についてだ。「最後は自分の言葉の添削とかもなるべく人がやったほうがいい」と彼女は語る。「自分のブランディングをしっかりとしていかないといけない」時代だからこそ、「自分が表現したいことを的確に表現できるように、自分の言葉を使う」ことが重要だという。
「必死さっていうのは、文字を通してでも伝わる」。深夜3時まで英語と格闘した中学生の必死さが、情報ゼロの環境でネットを掘り続けた受験生の必死さが、父親の圧迫面接で泣きながら準備した高校生の必死さが——慶應SFCの審査官には、確かに届いていた。
