Story
合格者のストーリー
マッチもらえるならええか


飯村一輝さんがフェンシングを始めた理由は、体育館の自販機に置いてあったビタミンジュース「マッチ」が欲しかったからだ。小学1年生の時、父親に「マッチ買ってあげるからフェンシングやってみるか」と言われた。深く考えず、「もらえるならええか」と軽い気持ちで始めたこのスポーツを、飯村さんは17年間続けた。その先にあったのが、2024年パリオリンピックの金メダルだった。
慶應義塾大学SFC総合政策学部を卒業し、4月からNTTにアスリート社員として入社する飯村さんは、インターハイ優勝2回・日本代表という実績があったにもかかわらず、スポーツ推薦を「意図的に使わなかった」。「自分の力で入った感がなさそう」という一言が、その理由のすべてだった。慶應法学部政治学科のFIT入試(A方式・B方式)に両方不合格になるという挫折を経験しながらも、SFC総合型選抜で逆転合格を果たした。塾で小論文を400本書き、面接では「最近関心のあるニュース」について30分間深掘りされた。「緊張してる自分が楽しくなった」という境地が、金メダリストを生んだ文武両道の17年間を語ってもらった。
「マッチもらえるならええか」—練習嫌いの小学生が17年間継続できた理由

飯村一輝さんとフェンシングの出会いは、体育館の自販機の前だった。幼稚園の頃から試合会場に連れていかれていた飯村さんの目に、自販機に置かれたビタミンジュース「マッチ」がキラキラ光って見えた。父の「マッチ買ってあげるからフェンシングやってみるか」という言葉に、「マッチもらえるならええか」と軽い気持ちで返事をしたのが17年間の始まりだった。
しかし小学生の頃、飯村さんは練習が嫌いだった。寝たふりやお腹痛いふりをして練習を逃れようとしていた。父に首根っこを掴まれて練習場まで連れて行かれた日々。妹と喧嘩すると自分だけボコボコにされた記憶も鮮明に残っている。「当時は鬼だと思ってたんですけど、今となっては感謝してます」——この言葉に、現在の飯村さんが立っている場所の高さが滲んでいる。嫌々続けさせてくれた父親と、鬼のような練習が、17年後の金メダルを作ったのだという確信が、今はある。
高校1年生でインターハイ優勝した時、転機が訪れた。大勢の人に見られる経験を重ね、「悪くないの?」という感覚を得た。緊張を悪いものとして捉えていたそれまでの自分が変わっていった。「緊張してる自分が楽しくなった」——この境地は、後の大学受験の面接という全く異なる舞台でも、同じように機能することになる。インターハイは高2がコロナで中止になったが、高1と高3の2回優勝。高校1年からシニアカテゴリーで国際大会に参戦し、年間10大会の海外遠征をこなしながら、飯村さんの「緊張を楽しむ力」は磨かれていった。
「フェンシングだけじゃ食べていけない」—文武両道への意識転換
龍谷大学付属平安中学校に特待生で入学し、6年間特待生を維持しながら競技を続けた。日曜日のスケジュールは9〜12時テスト・12〜18時授業・18〜21時フェンシング練習。車の中で夜ご飯を食べて帰宅し、宿題をして就寝。「小学生の頃が一番ハードだった」と振り返るほどの過酷な毎日だが、それをこなせた背景には明確な意識があった。「フェンシングだけじゃ食べていけない」という現実認識だ。
「引退後の選択肢を多く持ちたい」という考えが、社会的に強い慶應義塾大学を志望する動機になった。文武両道は美しい理想論ではなく、将来のキャリアを見据えた合理的な判断だった。評定を4.0以上に保ちながら競技のトップを目指す生活は、妥協を許さない厳しさを伴っていたが、飯村さんはその厳しさを「自分への投資」として捉えていた。スポーツと学業、どちらかを犠牲にするのではなく、両方を本物にするために日曜日の時間割を組み立てた。その意志が、後の受験戦略においても「スポーツ推薦を使わない」という選択へとつながっていく。
「自分の力で入った感がなさそう」—スポーツ推薦を使わない決断と東京進出


インターハイ優勝2回・日本代表という実績があれば、スポーツ推薦という選択肢がある。しかし飯村さんはその道を意図的に選ばなかった。理由を問われると、言葉はシンプルだった。「自分の力で入った感がなさそう」——この一言に、飯村さんの価値観が凝縮されている。スポーツ推薦で入学することへの不満ではない。自分が積み上げてきた力を、競技以外の場で証明したいという欲求だった。
代表練習拠点が東京の赤羽・味の素ナショナルトレーニングセンターにある。世界で活躍するために強い選手との練習環境が必要だった。大学から上京するという決断と、必修科目が少なく授業を組み合わせやすいSFCという環境の選択は、フェンシングとの両立という観点からも合理的だった。ただし、SFCは湘南藤沢キャンパスという立地で、都内から片道2時間のアクセスだ。「朝6時起床、2時間かけて通学、1限だけ受講して速攻帰宅」という生活が4年間続くことを、飯村さんは最初から計算した上で選んでいた。
年間10大会の海外遠征が育てた英語力と国際感覚
高校1年生からシニアカテゴリーで国際大会に参戦し、年間10大会の海外遠征をこなした。審判とのコミュニケーション、ウクライナ人コーチからフランス人コーチへの変更も英語でこなし、「今は英語しゃべれるのは当たり前」という認識に至った。英検2級というスコアと実際の英語力の間には大きな乖離があるが、飯村さんにとって英語はスコアではなく「現場で戦うためのツール」として身についたものだった。この実戦の中で培われた英語力と国際感覚は、大学受験の書類には数字として現れにくい。しかしSFCの総合型選抜は、そうした「数字に現れない本物の力」を見抜く入試だった。
法学部FIT不合格→SFC逆転合格—塾・小論文400本・面接30分深掘り
当初の第一志望は慶應義塾大学法学部政治学科のFIT入試だった。一人親世帯の貧困問題という研究テーマで志望理由書を作成し、A方式・B方式の両方に出願した。面接では「合格フラグが立ったと思っていた」。それほど手応えを感じていたにもかかわらず、結果は両方不合格だった。「なんでなんでしょうか?」という困惑の言葉に、当時の衝撃がそのまま宿っている。志望理由の深みや研究との適性について後から自己分析した飯村さんは、法学部という選択そのものを見直し、SFC総合政策学部の総合型選抜という選択肢へと向かった。
塾でのマンツーマン指導で小論文を400本書いた。論理的思考力と構成力、言語化能力を徹底的に鍛えた準備が、SFCの面接という本番で力になった。本番は面接のみという形式のSFC総合型選抜で、「最近関心のあるニュース」について30分間の深掘りが行われた。総裁選か衆院選について詳しく質問され、コロナ禍をどう乗り切るかという問いには遠隔ハイタッチシステムの事例で回答した。フェンシング界での新しい取り組みも紹介した。「相手が求める回答を想像しながら話す」という即興の対話が、面接という場を「楽しい時間」に変えた。高校で磨いた「緊張を楽しむ力」が、全く異なる舞台で同じように機能した瞬間だった。
「言語化できるものがあれば入れる」—総合型選抜の本質と面接対策
「自分が言語化できるものがあれば入れる」「自分の強みを生かす何かを持っていれば武器になる」——飯村さんのこの言葉は、総合型選抜の本質を突いている。特別な面接練習はせず、「自分の考えを言語化する力」と「即興で話す力」を磨くことに集中した。インターハイ2回優勝という経験が生んだ「緊張を楽しむ」という境地が、面接という特殊な状況でも自然体で臨む力を生み出した。準備した知識の量よりも、「自分はこう考える」という言葉を論理的に組み立てて届ける力——それこそがSFCの総合型選抜が測ろうとしているものだと、飯村さんは実体験から確信している。
「壁打ちしてくれるメンターがいるかどうかで大違い」—塾を活用した意味
「壁打ちしてくれるメンターがいるかいないかで大違い」という言葉が、塾選びの本質を示している。塾でのプロとのマンツーマン指導で400本の小論文を書いたという準備量は、単なる練習量ではなく「言語化する力と即興力を培うチャンス」として機能した。自分の考えを書く、プロに読んでもらう、フィードバックを受ける——この繰り返しが、面接での即興対応力という形で結実する。「プロとしてやられている方と話す機会が大事」という言葉は、何百本という小論文の向こう側にある、対話の質への確信から来ている。
慶應SFCが評価した3つのポイント—文武両道×言語化力×将来ビジョン
飯村さんの合格を分析すると、評価されたポイントは3つに整理できる。
第一は、**17年間の継続とインターハイ優勝が証明した「やりきる力」**だ。小学1年生から高校3年まで継続したフェンシングが「継続力と忍耐力」を数字で証明した。スポーツ推薦を使わないという選択が、むしろ「自分の力で課題に向き合う人物」という評価につながった。実績そのものより、その実績をどう自分の力で勝ち取りに行くかという姿勢が、SFCの総合型選抜では問われていた。
第二は、塾400本で磨いた言語化力と即興対応力だ。SFCの面接で30分間の深掘りに論理的に答えたパフォーマンスは、400本の小論文と「緊張を楽しむ」というメンタルの産物だった。準備した量が自信になり、その自信が面接を「試験」ではなく「対話」として楽しめる土台になった。
第三は、社会課題への問題意識という将来ビジョンの一貫性だ。法学部時代の一人親世帯研究から、SFCでの学びへと繋がる社会への関心は、「大学4年間を通じて何を成し遂げたいか」というSFCの核心的な問いへの誠実な回答だった。競技者としての経験が社会問題への視座を開いていたことが、面接での言葉に本物の重みを与えた。
「大学4年間は一瞬の出来事」—片道2時間・126単位ギリギリのSFC生活
朝6時起床、片道2時間の通学、1限のみ受講して速攻帰宅、赤羽で練習——これがSFC4年間の日常だった。卒業必要単位124に対して126という綱渡りの卒業は、「今思えば何でできたんだろう」という言葉が示す通り、自分でも信じられないほどの密度だった。大学3年の遠征増加で単位取得が困難になった時期もあったが、月曜のゼミとフル授業・火曜の午前授業と午後練習・水曜の午後オフ・木曜の午前授業と午後練習・金曜の終日練習という時間割を精密に組み立てて乗り越えた。大学1年生の情報基礎の授業で偶然出会った先生が奨学金運営財団の関係者で、学費全額免除レベルの奨学金を獲得できた「本当にラッキーだった」体験も、SFCという環境の豊かさを示している。
パリ五輪金メダル・NTT入社・そして起業へ—慶應SFCが種を蒔いた文武両道
2024年、パリオリンピックでフェンシング金メダルを獲得した。「本当に取れるんだって、金メダルっていうのがあって」——この言葉に、17年間の全てが凝縮されている。マッチが欲しかった小学1年生が、父に首根っこを掴まれて練習場に連れていかれた少年が、本当に金メダルを取った。金メダル獲得後、出身クラブへの応募者が殺到して募集打ち切りになったという事実が、オリンピックの影響力の大きさを証明した。自分が戦うだけでなく、自分の戦いがフェンシング人口を増やすという社会的な役割への自覚が、ここで生まれた。
4月からNTTにアスリート社員として入社し、将来は起業を視野に入れている。「人が集まるようなビジネスをしたい」「自分の好きなことをやってる自分が一番ポテンシャルを発揮できる」——太田雄貴さんをロールモデルに、フェンシング以外のフィールドでも文武両道を貫く姿勢は変わらない。IOC理事のような国際的な活動も視野に入れながら、金メダリストとしての影響力をどう社会に還元するかを考え始めている。
受験生・保護者へ|「言語化する力」と「スポーツ経験への自信」が合格への本質
飯村一輝さんが総合型選抜を目指す後輩たちへ贈るメッセージは、3つのポイントに集約できる。
まず、「スポーツで積み上げてきたものへの自信を持つこと」。「スポーツやってる人は自分のやってきたものに自信がある」という言葉が示すように、部活や競技で積み上げてきた継続力・忍耐力・チームワーク・緊張を乗り越える力は、総合型選抜における本物の武器だ。大会の成績や実績の数字だけではなく、「なぜそれを続けてきたのか」「そこから何を学んだのか」を言語化できた時、それはどんな偏差値よりも強い書類になる。スポーツ推薦という選択肢があっても、「自分の力で証明したい」という意志があるなら、総合型選抜はその意志に応える入試だ。
次に、「壁打ちしてくれるメンターを見つけること」。一人で志望理由書を書き、一人で面接練習をすると、必ずどこかに盲点が生まれる。「壁打ちしてくれるメンターがいるかどうかで大違い」という言葉の通り、塾のプロに400本の小論文を読んでもらい、高校の先生に推薦書を依頼し、親に原稿を読んでもらうという多層的なサポートが書類と面接の完成度を高める。特に重要なのが、メンターとの「相性」だ。自分の考えを真剣にぶつけられる相手を見つけることが、合格への最短経路だと飯村さんは確信している。
そして最も重要なのが、「チャレンジすることを恐れずに、悔いの残らない選択をすること」。法学部FIT入試に両方不合格になるという挫折を経験しながら、SFC総合型選抜で逆転合格を果たした飯村さんの軌跡は、「一度の失敗が終わりではない」ことを証明している。諦めずに次の選択肢を探す粘り強さと、「このチャレンジが自分に向いているか」を冷静に分析する知性の両方が、総合型選抜という入試では求められる。
保護者の方へ。総合型選抜は、子どもが「自分は何に関心があるのか」「なぜこの大学でなければならないのか」を徹底的に言語化する受験だ。その過程を一緒に歩む大人の存在が、合格を大きく左右する。「チャレンジすることを恐れずに頑張って」という飯村さんの言葉は、マッチ欲しさにフェンシングを始めた少年が、金メダルを取り、文武両道を今も続けているという事実に裏打ちされている。子どもの「やりたいこと」に耳を傾け、その一歩を後押しすること——飯村さんの合格の背景には、そうした環境があった。
「大学4年間は一瞬の出来事。4年間の濃さが人生を左右する」——この言葉を、受験を前にしたすべての高校生と保護者に届けたい。総合型選抜は、その4年間を「自分が本当に学びたい場所」で過ごすための入口だ。

