Story
合格者のストーリー


アメリカに渡ったばかりの頃、彼が口にできた英単語はたった一つ、「アイロン(iron)」だけだったという。言葉が通じず、文化も食事も違う。そんな状態から5年7ヶ月。高田光生(たかだ こうき)さんは、慶應義塾大学SFCの帰国生入試に合格し、最終的に学習院大学法学部政治学科へ進学した。
だが、その道のりは決して華やかな「帰国子女のサクセスストーリー」ではない。英語ができないという理由で学年を下げられそうになり、帰国後は今度は日本語が書けずに小論文で苦しんだ。TOEFLは最初64点。「死んでしまいます、助けてください」と塾に懇願したところからのスタートだった。
彼を支えたのは、たった一つの行動原理だった。「制度がないなら自分で作る」。この記事では、言語の壁という二重の逆境をどう乗り越え、帰国生入試と一般入試をどう併用し、限られた時間で何に集中したのかを、本人の言葉とともに追っていく。帰国生入試を目指す受験生、そして日本語や英語のハンデに悩むすべての受験生に、具体的なヒントを届けたい。
「アイロン」しか言えなかった少年|アメリカ移住からの逆境スタート
高田さんの海外生活は、父の転勤から始まった。貿易系の外資系企業で働く父について、家族でカリフォルニア州へ。だが、いきなり英語環境に放り込まれた彼を待っていたのは、言葉の通じない孤独な日々だった。
「最初の2年間は本当、アイロンとしか言えない」
授業も、友達との会話も、何もわからない。言語だけでなく、文化も食事も日本とはまるで違う。多くの帰国子女が「英語ペラペラ」のイメージで語られる一方で、彼の出発点は、この「アイロンしか言えない」状態だった。後に英検1級・TOEFL102点に到達する彼でさえ、最初はゼロからのスタートだったのだ。
そんな彼の人格形成に大きな影響を与えたのが、父の存在だった。父は彼に、こう語っていたという。「お金持ちになりたかったら、社長になるか、会社を売るか、株式投資するくらいしかない」。この言葉は、幼い彼の中に「お金持ちになりたい」という明確な目標を刻み込んだ。そして父は、ただ語るだけでなく、実際に自分の口座を彼に使わせて株式投資を体験させた。お金やビジネスを机上の空論で終わらせない——この原体験が、後の地政学への関心や、学生起業へとつながっていく。
中学時代には一時帰国し、吹奏楽部という文化系の部活に所属した時期もあった。日本の文化にどっぷり浸かりながらも、彼はどこかでギャップを感じていた。日本とアメリカ、二つの世界を行き来する中で、彼は自分の立ち位置を模索し続けていたのだ。
父の口座で始めた株式投資
高校時代、彼はすでに父の口座を使って株式投資を実践していた。大学のエコノミクスの授業を受講した際には、教授から「Appleの株買っとけよ」と言われたこともあったという。お金持ちになりたいという願望は、漠然とした憧れではなく、具体的な行動として彼の日常に組み込まれていた。
この投資への関心は、大学での地政学の学びへと発展していく。世界情勢が市場をどう動かすか——彼にとって学問と投資は地続きだった。幼少期に父から受けた「お金とビジネス」の教育が、彼の一貫した軸を作っていたのだ。
学年を下げられる屈辱|「制度がないなら自分で作る」
高田さんの転機を語る上で外せないのが、高校入学時のある事件だ。彼は本来、高校2年生として現地校に入学する予定だった。ところが、英語力が不足しているという理由で、学年を一つ下げられ、高校1年からのスタートにされそうになったのだ。これでは、同世代より卒業が1年遅れてしまう。
彼の中で、強烈な感情が湧き上がった。
「絶対嫌だってなって飛び級しようってなりました」
同世代と遅れたくない——その負けず嫌いの精神が、彼を異例の行動へと突き動かす。普通の生徒なら、決まったことを受け入れて諦めるところだ。だが彼は違った。カウンセラーに掛け合い、翌日には教育委員会へとつないでもらった。そして、教育委員会の幹部5人を前に、まだ拙い英語で必死にプレゼンテーションをしたのだ。父も同席する中、彼は「自分はこの学年でやっていける」と訴え続けた。
飛び級制度は、その地域には一般的に存在しなかった。つまり彼は、前例のない制度を、自分自身のためにゼロから作り上げたことになる。
「制度がないなら自分で作る」
これは彼の生き方そのものを象徴する言葉だ。環境が自分に合わなければ、環境のせいにするのではなく、環境を変えにいく。この行動力は、後の起業や受験戦略にも一貫して流れ続ける。
そしてこの飛び級制度は、彼一人の問題解決では終わらなかった。彼が作ったこの制度を、後輩がのちに利用し、名門カリフォルニア大学バークレー校へと進学したのだ。一人の少年の「絶対嫌だ」という感情が、制度として残り、後輩の未来を開いた。逆境を、自分だけでなく他者の道へと変えた瞬間だった。
全米4位のアメフトと模擬国連|実力主義の中で磨いた力



学年問題を乗り越えた高田さんは、現地校での活動にも積極的に飛び込んでいく。中でも象徴的なのが、全米4位という強豪のアメフト部に所属したことだ。主力選手ではなく「席だけ入れてもらった」立場だったというが、それでも全米トップレベルのチームに身を置いた経験は大きかった。
そこは、厳しい上下関係と徹底した実力主義の世界だった。日本の部活とは異なる、結果がすべての環境。文化系の吹奏楽部からアメフトへという転身は、彼にとって大きなギャップだったはずだ。それでも彼は継続して参加し、実力で評価される世界の厳しさと面白さを肌で学んだ。
アメフトと並行して、彼は模擬国連にも参加した。各国の代表として国際問題を議論するこの活動は、彼の国際的視野とディベート能力を磨いた。世界情勢を多角的に捉える視点は、後の地政学への関心とも深く結びついている。さらに大学のエコノミクス授業を高校生のうちから受講するなど、海外高校ならではの環境を最大限に活用していた。彼は与えられた環境を、ただ受け取るのではなく、貪欲に使い倒していったのだ。
単語帳が3分割になるまで|英語をモノにした執念
「アイロン」しか言えなかった彼が、どうやって英語をモノにしたのか。その答えは、執念とも言える地道な努力にあった。彼はCNNやアメリカのニュースを、寝ている時間ですら流し続けた。そして単語帳「TOEFL3800」を、使い込んで3分割になるまで完璧にマスターしたという。
「単語がわからないと英語ってわからない」
彼が掴んだのは、シンプルだが本質的な真実だった。一冊を完璧にする——その積み重ねが、確かな成長につながる。一方で、彼は正直に失敗も語る。現地で彼女を作って英語を教えてもらおうとしたこともあったが、恋愛に頼った英語学習の効果は限定的だったという。結局、自分で単語帳を完璧にする地道な自習こそが、最も効いた。楽な近道を期待する受験生にとって、これは耳の痛い、しかし大切な教訓だろう。
帰国の決断と日本語の壁|小論文で「漢字が書けない」
順調に見えた高田さんの海外生活だったが、高校3年に差し掛かる頃、大きな決断を迫られる。父の転勤がいつ終わるか分からなかったのだ。もし高校を卒業した後に帰国すれば、帰国生入試の出願資格を満たせなくなる可能性があった。タイミングを逃せば、最大の武器である「帰国生」というカードを失ってしまう。
アメリカの大学進学も検討した。だが、スカラーシップ(奨学金)には全落ち。年間約1000万円もの学費を借金してまで通うべきか——彼は悩んだ末に、アメリカの大学受験はしないと決め、日本への帰国を選んだ。
ところが、帰国した彼を待っていたのは、今度は「日本語の壁」だった。高校時代は英語漬けの生活を送っていた反動で、日本語の能力が大きく落ちていたのだ。小論文を書こうとすると、そもそも漢字が書けない。論理的な日本語の文章を組み立てることに、彼は深く苦しんだ。英語ができずに苦労した少年が、今度は日本語に苦しむ——言語の壁は、形を変えて二度、彼の前に立ちはだかった。
追い打ちをかけたのが、帰国生向けの大手塾・代ゼミでの経験だった。そこには世界各国から集まった優秀な帰国生がいた。東大の帰国生入試を目指すような猛者たちに囲まれ、彼は強い劣等感を抱く。
「僕はめちゃくちゃ苦戦してて、苦労人ですね」
彼は自分を「苦労人」と表現する。地頭が特別良かったわけでも、何もかもがスムーズだったわけでもない。むしろ、つまずきと劣等感の連続だった。だが、その苦しさを率直に認められることこそ、彼の強さでもあった。彼は劣等感に飲み込まれず、それを「ここから伸びるしかない」というエネルギーに変えていく。
TOEFL64点からの逆転|英語の本質は動詞にある
帰国生入試で大きな武器になるのが、TOEFLや英検といった英語資格だ。だが、ここでも高田さんのスタートは決して恵まれていなかった。最初に受けたTOEFLのスコアは、わずか64点。彼は塾に駆け込み、こう懇願したという。
「死んでしまいます、助けてください」
危機感は本物だった。このスコアでは、目指す大学に届かない。彼が頼ったのは、慶應義塾大学の前にあったTOEFL専門塾「リバティアカデミー」だった。そこで出会ったのが、「英語の本質は動詞にある」という独自のメソッドだ。オンライン授業から対面授業に切り替え、このメソッドを徹底的に叩き込んだ結果——彼はわずか3ヶ月で、TOEFLを64点から102点へと劇的に伸ばした。
英検でも、彼は印象的なエピソードを残している。なんと、英検準1級には落ちたのに、英検1級に合格したのだ。順番が逆転したこの珍しいパターンは、彼の実力が「型にはまった試験向き」ではなく、本質的な英語力で勝負していたことを物語っている。最終的に提出したTOEFLスコアは113点。「アイロン」しか言えなかった少年が、ここまで到達したのだ。
この英語資格の積み上げが、帰国生入試における彼の出願力を大きく押し上げた。短期間でも、正しい方法と執念があれば、英語は伸ばせる。彼の経験は、英語資格に悩む受験生にとって、確かな希望になるはずだ。
帰国生入試と一般入試の併願戦略|科目を絞り、小論文に全振り
高田さんの受験戦略の核心は、「絞る」ことにあった。彼は当初、一橋大学を志望していたが断念。早稲田政経も共通テストが必要なため見送った。そして最終的に、英語・世界史・小論文という3科目で受けられる慶應法学部に狙いを定める。受けられる大学・学部を冷静に見極め、自分の強みが活きる科目構成に絞り込んだのだ。
入試方式も巧みに使い分けた。帰国生入試では慶應SFCと学習院を、一般入試では慶應法学部と学習院(練習も兼ねて)を受験。複数の方式を併用することで、合格のチャンスを最大化した。これは、一つの方式に賭けるのではなく、自分の持ち札を全て使う戦略的な発想だった。
時間配分も徹底していた。帰国後わずか2〜3ヶ月という短期集中の中で、彼は最大の弱点である小論文に、時間の8割5分を投入した。海外で学んだ数学は日本語に変換し直し、英語は帰国生としての優位性をそのまま活かす。限られた時間を、最も伸びしろのある場所に集中させたのだ。
小論文では、英語での論理構成を日本語に落とし込む作業を繰り返した。綺麗な対比構造を作って結論に導く——この型を身につけ、死刑制度のような定番テーマにも対応できるようにした。日本語のボキャブラリーと言い回しを地道に定着させ、漢字が書けなかった状態から、論理的な文章を書けるレベルへと引き上げていった。出願書類では、志望理由書や活動アピールに加え、海外の教師2枚から推薦書をもらい、英語資格証明書も揃えた。
結果は、慶應SFC合格、学習院は帰国生入試で書類選考のみで合格、一般入試でも合格。慶應法学部の一般入試は補欠、あと一歩で不合格という悔しさも味わったが、複数の合格を勝ち取ったのだ。
慶應SFC合格でも、学習院を選んだ理由

複数の合格を手にした高田さんだが、最終的に進学先として選んだのは、学習院大学法学部政治学科だった。慶應SFCにも合格していたものの、当時の彼にとってSFC合格は「なし寄りのなし」という気持ちだったという。合格と進学は、必ずしもイコールではないのだ。
学習院を選んだ背景には、彼の地政学への強い関心があった。志望理由でも語っていた通り、彼は国際政治や世界情勢を深く学びたかった。さらに学習院法学部には、成績優秀者向けの「早期選抜コース」があり、3年で卒業を目指せる。同世代と遅れたくないという彼の一貫した価値観に、これは見事に合致していた。
受験生にとって大切なのは、「どこに受かったか」だけでなく「どこで何を学ぶか」だ。高田さんは、ブランドや偏差値だけで進学先を決めなかった。自分が学びたいこと、自分の目標に合う環境はどこか——その視点で選んだ学習院で、彼は今、地政学を専攻し、早期卒業を目指して走っている。
受験生・保護者へのメッセージ|「死ぬ気で頑張るかで人生の残りが決まる」
最後に、高田さんが受験生と保護者へ伝えたいことを聞いた。彼の言葉には、二つの言語の壁を越えてきた者ならではの重みがあった。
受験生へのメッセージとして、彼が何より強調するのは「今の頑張りが人生を決める」ということだ。
「受験も就活も、この4年間、6年間を死ぬ気でやるかが人生の残りを決める」
22歳から60歳までの長い人生を、今のこの数年間の頑張りが左右する。だからこそ、ここで死ぬ気で取り組む価値がある——彼はそう信じている。「6年頑張ればいい未来が待っている」。逆境続きの中でも、彼が前を向き続けられたのは、この未来への確信があったからだ。
そして彼の行動原理である「制度がないなら自分で作る」という発想も、受験生に伝えたい大切なメッセージだ。環境が自分に合わなければ、嘆くのではなく、変えにいく。飛び級制度を作ったように、海外経験を日本での強みに変えたように。与えられた環境を最大限に活用し、足りないものは自分で取りにいく。その姿勢が、彼を慶應SFC合格へと導いた。
保護者へは、「子どもの挑戦を支援することの大切さ」を伝えたい。高田さんの父は、海外という環境を与え、株式投資を体験させ、飛び級のプレゼンにも同席した。子どもが失敗を恐れずに挑戦できるのは、それを後ろで支える存在があるからだ。海外経験への投資、そして挑戦を見守る姿勢——それが、子どもの可能性を大きく広げる。
「アイロン」しか言えなかった少年は、今、学習院で地政学を学び、起業や国際展開という未来を見据えている。負けず嫌いで、苦労人で、それでも諦めなかった一人の挑戦者の物語は、言語や環境のハンデに悩むすべての受験生に、確かな勇気を与えてくれるはずだ。
