Story
合格者のストーリー
メキシコで育った日本人――二つの文化のあいだで


桂さんのルーツは鹿児島県にある。母はJICAの青年海外協力隊としてメキシコへ渡った日本人、父はメキシコ人。鹿児島で生まれた桂さんは、物心がつく前にメキシコへと移り住み、人生のほとんどをメキシコシティで過ごすことになる。
幼少期、彼女が最初に身につけた言葉はスペイン語だった。現地の幼稚園で自然にスペイン語を覚え、その後、日本人学校の幼稚園へ転校してから、ひらがなを起点に日本語の学習を始める。家庭には独特のルールがあった。母とは日本語、父とはスペイン語でしか話さない――この習慣が、彼女を自然なバイリンガルへと育てていく。
小学校・中学校は、メキシコにありながら日本とほぼ同じ教育を行う日本人学校で過ごした。日本語で授業を受け、日本の価値観や文化を学ぶ。一方で、母が営む和菓子屋の手伝いでは、日本語のわからないメキシコ人客との間に立って通訳をこなした。日本とメキシコ、二つの世界を行き来する役割は、ごく幼い頃から彼女の日常だった。
それでも、桂さんの内側には早くから一つの感覚が芽生えていた。日本の同年代と話していても考え方が噛み合わないことがあり、かといってメキシコの友人たちの流行や感覚にもうまく乗れない瞬間がある。「どっちにも入れないような感じの状況」――彼女はのちにそう振り返っている。鹿児島出身でありながら「鹿児島のことはほとんどわからない」と正直に語る彼女のギャップは、まさに二つの文化のあいだで育った証だった。
この「どちらにも属しきれない」という立ち位置は、しばらくは葛藤の種でしかなかった。だが後に、それこそが彼女の最大の武器へと転じていく。多様な文化を内側に持つこと、複数の言語で物事を捉えられること――その価値に気づいたとき、彼女の進路は大きく動き始める。
格差社会と若年母親――メキシコで芽生えた問題意識


メキシコシティは、桂さんにとって日常の風景であると同時に、社会の矛盾を肌で感じさせる場所でもあった。住んでいる地域から少し足を延ばせばスラム街が広がり、道では物乞いをする人々を見かける。富裕層の暮らす一角と困窮する地域が隣り合う――そんな格差社会の中で、彼女は早くから「自分が何かをしなければ」という感覚を抱いて育った。
問題意識が具体的な形を取り始めたのは、中学時代だった。国際関係学という学問の存在を知り、世界の仕組みや国と国との関わりに目が向き始める。母の国際的な仕事の影響も大きかった。「このイベントがあったら絶対行きなさい、と、どんどんいろんなことをやらせてくれた」という家庭の後押しが、彼女を社会へと押し出していった。
同い年の母親たちと出会った日
中学時代、桂さんは若くして母親になった女性たちを支援するボランティアに参加した。そこで出会ったのは、自分とほとんど年齢の変わらない少女たちだった。好きな音楽も、好きなものも自分と同じ。なのに、彼女たちは子どもを抱え、生活の責任を背負っている。その光景は、桂さんに強い衝撃を与えた。
同じ年頃の女の子が、まったく違う人生の重さを生きている。その事実を前に、彼女は単なる同情ではなく、何が必要とされているのかを考えるようになった。精神的に支えること、寄り添うこと――支援の現場で、彼女は具体的なビジネスの助言まで含めて関わっていく。
この経験は、彼女の問題意識をぼんやりとした正義感から、実際に手を動かす行動へと変えた。社会課題を「遠くの誰かの話」ではなく「目の前の人の話」として捉える視点。それは後に、総合型選抜で語る活動実績の核となり、志望理由の説得力を支える土台になっていった。
言語の壁とアイデンティティの葛藤


高校進学にあたり、桂さんは日本人学校から、同じ学院内にあるメキシコ現地コースへと環境を移した。Liceo Mexicano Japonésは現地でも厳しいことで知られる学校で、ここから日本の大学への海外推薦枠はわずか1名。その狭き門を意識する以前に、彼女を待っていたのは想像以上に高い言語の壁だった。
現地校では、全教科がスペイン語で行われる。日本人学校で日本語中心の教育を受けてきた桂さんにとって、専門的な内容をスペイン語で理解し、スペイン語で答える日々は過酷だった。「全部教科書とか配られたものも、翻訳して理解して、またスペイン語で戻してやってた」――彼女はそう振り返る。一度日本語に訳して理解し、答案では再びスペイン語に直す。二重の翻訳作業を、特に高校1年の頃は毎日のように繰り返した。
皮肉なことに、スペイン語漬けの3年間で、今度は日本語のほうが錆びついていった。だんだんと日本語を忘れてしまっていたという実感は、日本の大学を受験するうえで大きな不安となってのしかかる。母語と思っていた日本語が、いつの間にか手元から滑り落ちていく感覚は、二つの文化のあいだで生きる彼女ならではの苦しさだった。
そして、根底にはずっとアイデンティティの問題があった。「どのハーフにもあると思うんですけど、このアイデンティティ問題」と語る彼女は、日本でもメキシコでも、ときに偏見の目を向けられる立場にあった。どちらの社会からも完全には受け入れられない――その感覚は、思春期の彼女を確かに苦しめた。
転機は、その葛藤を見つめ直したことだった。最初はネガティブに捉えていたが、「ネガティブに思っていても何も変わらない」と気づいたのだ。そこから彼女の発想は反転する。「自分がこの立場にいるからこそ、これを最大限に生かして、同じような人を見つけて、必要としている人たちに寄り添う」。属せない苦しさは、誰よりも多くの世界を見渡せる強みに変わった。複数の言語と文化を持つからこそ、「いろんな物事をいろんな考え方から見れるのは、すごく得だ」と彼女は語る。逆境を強みへと読み替えるこの視点こそ、後の自己推薦書を貫く一本の軸になった。
文化の架け橋として――海外で続けた活動の数々

桂さんの活動歴は、どれも「日本とメキシコをつなぐ」という一点で結ばれている。突発的なボランティアの寄せ集めではなく、幼少期からの役割が自然に育って形になったものだ。その一貫性こそが、総合型選抜で高く評価される活動実績の理想形だった。
軸の一つは剣道だ。両親ともに経験者という家庭で、桂さんは小学1年生から剣道を続けてきた。学校の部活ではなく校外での継続であり、メキシコの剣道大会では優勝も経験している。十数年にわたる継続は、彼女の粘り強さと、日本文化への愛着を雄弁に物語る。
文化発信も大きな柱だった。日本文化、アジアの美容、メキシコ文化を、日本語とスペイン語の両方で動画として発信。企画から制作まで自主的に手がけ、二つの国の文化を双方向に橋渡しした。生徒会のメンバーや副級長を務め、学校の中でもリーダーとしての役割を担っている。
通訳として立った、和菓子セミナーの現場
最も彼女らしさが表れているのが、母の和菓子屋を起点にした文化活動だ。桂さんは販売の通訳を務めるだけでなく、茶道のセミナーを開き、和菓子の練り切り作りを体験できるセミナーでは講師として現地の人々に教えた。日本語のわからないメキシコ人に向けて、和菓子という繊細な文化を自分の言葉で伝える――それは通訳を超えた、文化の翻訳だった。
並行して、若年母親や子どもを支援するボランティアを続け、日本大使館でのアルバイトも経験した。大使館では現役の外交官と交流し、華やかなイメージとは違う地道な仕事の中身を知る。「その国に住んでいる日本の方たちを守る仕事」という外交官像が、彼女の中で具体的な目標として固まっていったのは、この頃だ。
これらの活動はすべて、「架け橋になりたい」という一つの思いに収束していく。バラバラに見える経験が、志望理由の中で見事に一本の線でつながったとき、彼女の物語は強い説得力を帯びた。
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海外から挑む総合型選抜――上智・APUの受験戦略
当初、桂さんはメキシコの大学への進学を考えていた。日本の大学という選択肢が現実味を帯びたとき、最初の壁は制度そのものへの無理解だった。「日本の受験というのは全く知らなかった」と語る彼女は、日本人学校の先生や、同じ海外出身で先に上智へ進んだ先輩のサポートを頼りに、ゼロから受験の仕組みを学んでいった。塾には通わず、個人指導で対策を進める道を選ぶ。
ここで効いたのが、彼女の経験との相性だった。メキシコでは活動実績が評価される受験文化があり、日本でも総合型選抜なら同じアプローチが通用すると見抜いた。筆記一発勝負ではなく、多様な経験を総合的に評価してもらえる方式――それは彼女の強みを最も活かせる戦場だった。
上智大学総合グローバル学部の海外推薦では、高校の成績表、自己推薦書、学校推薦書、日本語能力試験の証明、そしてTOEFLなどの英語資格が必要となる。選考は学内選考を通過してから大学選考へ進む二段階で、大学での個別面接はなく学内面接のみという形だった。海外推薦枠1名という狭き門を、彼女は厳しい現地校での成績と一貫した活動で勝ち取っている。
「ニュースを見ますか?」――APU面接で問われたこと
併願したAPUの活動アピール方式は、オンライン面接が中心だった。自己紹介、長所と短所、志望理由、活動内容に加えて、時事問題が問われる。中でも印象的だったのが「ニュースを見ますか?」という質問だ。桂さんはここで、移民問題を取り上げ、ただ知っていると答えるのではなく、具体的な解決策まで踏み込んで語った。日々国際情勢に触れ、社会課題を自分の頭で考えてきた彼女にとって、時事問題は付け焼き刃ではなく日常の延長だった。
自己推薦書に込めた、架け橋としての使命
海外推薦で最も重みを持つのが自己推薦書だ。日本語が錆びつきつつあった桂さんにとって、自分の思いを的確な日本語で表現する作業は簡単ではなかった。それでも彼女は、格差社会で芽生えた問題意識、若年母親との出会い、トリリンガルとして担ってきた架け橋の役割、そしてアイデンティティの葛藤を強みへと変えた過程を、国際関係学を学び外交官として国と国をつなぎたいという将来像に向けて収束させた。逆境を成長として言語化し、活動を志望理由に直結させるこの構成こそ、総合型選抜の自己推薦書で求められる王道だった。
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海外高校から合格を引き寄せた要因
桂さんの合格を支えた要因は、いくつかの層に分けて整理できる。
第一に、多様な文化的背景そのものだ。日本とメキシコのルーツを併せ持ち、日本語・スペイン語・英語のトリリンガルとして育った経験は、国際関係学を志す人物として他に代えがたい説得力を持っていた。複数の視点から物事を捉えられること――それは総合グローバル学部やAPUが求める人材像と深く重なる。
第二に、活動の継続性と一貫性である。小学1年生から続けた剣道、長年にわたる文化交流活動、若年母親支援ボランティア。これらが「日本とメキシコの架け橋になる」という一つの軸で結ばれていたことが、活動実績に厚みを与えた。単発の経験ではなく、人生をかけて積み上げてきた物語として読めたことが大きい。
第三に、社会課題への関心が行動と結びついていた点だ。格差や若年妊娠という問題を前に、彼女は具体的な解決策を考え、実際に支援の現場へ足を運んだ。APUの面接で移民問題への解決策を語れたのも、この日常的な思考の蓄積があってこそだった。
そして第四に、逆境を乗り越える力と明確な将来ビジョンだ。アイデンティティの葛藤、言語の壁、未知の受験制度――いくつもの壁を、彼女は嘆くのではなく強みや学びへと転換してきた。外交官という具体的な目標が一貫して語られたことで、彼女の志望理由は揺るぎないものになった。多文化背景・継続活動・行動力・将来像、この四つが噛み合ったとき、合格は必然へと近づいていった。
受験生・保護者へのメッセージ
最後に、桂さんから受験生へのメッセージを紹介したい。彼女自身が逆境を越えてきたからこそ、その言葉には実感がこもっている。
「この期間を頑張ったか、頑張らなかったかで本当に差が変わる。だから挑戦したいことはすべて挑戦してほしい。明るい未来が待っているし、大学は本当に楽しいので、ぜひいろんなことに挑戦して頑張ってください」。日本への進学を決めたときも、彼女を動かしたのは同じ思いだった。「メキシコに戻るのはいつでも戻れる。でも日本に挑戦できるのは、この入学の時期しかない」。だからこそ「後悔は絶対したくないから、日本に行こうと思った」と語る。
「好きなことが見つからない」と悩む人には、こんなアドバイスを送っている。「家から学校までの道のりで、毎日同じ道を通るんじゃなくて、今日はちょっと右に曲がってみよう、というふうに。いつものルーティンを少しだけ変えてみることで、変化はすごく大きい」。小さな寄り道が、思わぬ気づきや新しい好きを連れてくる。やってみる前から「好きじゃないかも」と決めて始めない人が多いからこそ、まず動いてみることを彼女は勧める。
保護者にとっても、桂さんの歩みは示唆に富む。一人っ子として教育への投資を惜しまない家庭で育ち、「絶対行きなさい」と背中を押された経験が、彼女の行動力を育てた。一人暮らしを始めて「本当に親のありがたみを感じました」と語る素直さも、彼女らしい。挑戦を後押しする環境と、そこから自立していく子どもの成長――その両輪が、海外からの総合型選抜という大きな挑戦を支えていた。
二つの文化のあいだで揺れた一人の少女は、その揺らぎを武器に変えて、外交官という夢に向かって歩み始めている。

